悲しいできごとを知るたび、《心が健康な人》って少ないのだなと思う。
ミャンマーのデモで市民を射殺した治安部隊の人。友だちの誕生日を祝ったり、ソファで寝落ちした恋人にブランケットをかけたりするやさしさを持っていると思う。
アメリカでアジア系女性を殺害した白人男性もきっとそう。
みんなそれぞれやさしさを持っている。
でも涙の量は減らない。
《心が健康な人の定義》というのがわたしの中にある。
①人を思いやる気持ちがある
②対話で解決する力がある
心が健康な人は、自分が持っている暴力的なパーツを雑に解放したり、都合が悪いことに対して圧力をかけない。人を怖がらせたり支配しようとしない。
心が健康な人が人間関係の問題に直面したとき、各々の苦痛が最小限になるように気をつけながら話し合いで解決する。
暴力で人を支配することになってしまった人の心の健康はどう?よくない状態だと思う。
「それ、友だちにはしないよね」ということはすべて暴力だ。
例えイラッとしてもね友だちにしないことはしちゃいけないよ。友だちにモノを投げますか。顔を踏みつけますか。存在を無視しますか。自分が傷つきたくないから先に相手を傷つけたりしますか。しないでしょう。
虐待もDVも不倫も戦争も全部暴力だから。相手が友だちじゃなくても頭使おうよ伝わるから— タイ人になりたいよしだ (@ysdasyk) January 10, 2020
建設的な議論をしながら歩み寄ることはできないのか。やさしくしたい友だちが相手なら、きっとできるだろう。
自分にとって身近な人や傷つけられる恐れがある人が相手になると、やさしさを忘れるのはどうして?
わたしはこの世界から暴力をなくすために《心が健康な人》になりたい。
誠実であるために、内観して、言葉にできる力をつけたい。
とはいえ、わたしがいくら《心が健康な人》として過ごしても、生きているうちに暴力がなくなることはないと思う。でも、きっとすこしは減る。
暴力もやさしさも連鎖する。だからわたしは《心が健康な人》になりたい。